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机の下の秘密基地
……プロ家庭教師ごん太の小さな発見……
我ら連合軍【4】

前回のつづき。

○奮起する

こうしてチーム分けがなされた後、「それぞれのチームは自分たちのチーム名を決めてください」ということになった。するとネガティブ思考の州因が「俺たちなんか余り者の集まりなんだから、余りものーずでいいじゃん…」と言い出した。

私はその言葉を聞いたとき、なぜか強く感情を刺激された。確かに客観的に見ると余り者が集まったチームに他ならないが、自分たちは余りたくて余った訳ではないし、自らそう名乗って卑屈になる必要は全くないではないか。

私は直ちに「いや、余りものーずなんてダメだ。しかし、確かに普段つるんでるメンバーが5人集まってできたチームじゃない。だから、チーム名は"連合軍"でいこう」

こうして私たちのチーム名は「連合軍」になった(ちなみに、他のチーム名はほとんど忘れてしまったが、フレンドシップを強引に和訳した「友情舟」という名前のチームがあったことだけは覚えている)。

州因の提案を打ち消すために即興で考えたチーム名だったが、「連合軍」という名前は自分たちが余ったから集まったのではなく、何か理由があって集まったという気にさせてくれた。そして、とても勝てそうにないチームだったが、何だか無性に「勝ちたい」という気分にさせてくれた。少なくともチーム名だけなら他のチームに比べても一番強そうであった。

つづく

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我ら連合軍【3】
前回のつづき。

○でき上がったチーム

そんなクラス・エコロジーの中で生活していた中学3年の頃。体育の授業でバスケットボールのリーグ戦をすることになった。それに際し、体育の先生が「チームは自分たちで決めといてくれ」という指示を出した。今考えれば無責任な話である。授業の一環でありレクリエーションではないのだから、バランスとか考えて先生がチームを決めるべきじゃないのか?まあ当時は特にそんなことは考えなかったが。そして声の大きい誰かが「じゃあ、好きなもの同士ってことで!」と言うと、クラスの中心メンバーを中心にどんどんとチームが結成されていく。

私は運動神経は悪かったが、プライドだけは妙に高かった。まだ人数の揃っていない強そうなチームに「ぼ、僕も入れてくれないかな?」と頭を下げることはせず、運を天に任せた。最終的に、私と同じようにどこのチームにも入らなかった人(それと入ろうとしたが断られて入れなかった人)が5人集まり1つのチームとなった。

その5人のメンバーとは「州因・チーズ・遠しゅー・石見・ごん太」である。全員に共通することは、クラスのマイノリティーであり、そして運動神経が悪いということである。

個別に見て行こう。州因はお寺の息子である。小太りでネガティブな思考の持ち主。低重心なせいかスキーだけは妙に上手かった。チーズは身体が小さく気も小さい。特に理由はないのだが、雰囲気で「チーズ」というあだ名をつけられた。遠しゅーは本名の遠藤秀次郎を縮めたニックネームであるが、通称「眠りの遠しゅー」。なぜなら授業中、常に寝ているから。寝ている理由は毎日明け方まで本を呼んでいるから。つまり本の虫である。石見は口が達者でひねくれた性格のガンマニア。たとえ先生だろうと論破していた。ごん太はプライドばかり高いゲームとアニメのオタク。よくもここまでのチームが出来上がったものである。

つづく
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我ら連合軍【2】

前回のつづき。

そんな運動神経に恵まれない私であったが、中学の時に会心のジャイアント・キリングを成し遂げた思い出がある。それについて少し書いていきたいと思う。

○クラス・エコロジー

中学の時の私は、クラスの中心グループに属しておらず、むしろマイノリティーの一員であった。「クラスの中心グループ」というのは面白いことが言える人、野球部などの運動が得意な人、あまり喋らないのだが空気が読めて周りと付き合いが良い人などで構成される。

一方、もやしっぽい人・おたくっぽい趣味を持つ人・空気は読めないが本質的に悪い人ではない人・運動神経が妙に悪い人・変なあだ名をつけられている人などによって構成される「マイノリティーグループ」が存在する。(※ちなみに、これ以外に「全く他の人とつるまない」独立部隊も点在する)

これらのグループの存在は、修学旅行の班決めなどの際にはっきりと現れる。中心グループのメンバーは割と早い段階で次々と好きなもの同士で班を成立させる。一方、マイノリティーグループは1つ1つのグループの構成人数が少ない傾向にあるので、グループ間で人員を受け渡しするなど工夫することにより、少しずつ班を成立させていく。最終的にははじき出された人や最初から全くグループを作る気がなかった人などが寄せ集められ、1つくらいグループができたり、まだ人数が足りてない班にねじこまれたりする。

つづく

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我ら連合軍【1】
私は家庭教師という仕事をしているということもあり、勉強に関しては得意であると言うことができるが、スポーツに関しては残念ながら平均以下の運動神経しか持ち合わせていない。

そのことに気付いたのは比較的早い時期だった。小学校2年生のとき、同じクラスの高橋くん−彼は小柄ながら運動神経が抜群だった−と同じ高さの塀から飛び降りた際、私だけが足をくじいたのである。

この事件を「そんなのたまたまでしょ!」と笑う人もいるが、私にはそう思う十分な理由があった。当時、僕たちの住む家の近くで火事が起きたことがあったのだが、その際、高橋くんのお父さんは燃える家の中に入って行っておばあさんを助け出し、消防署から表彰されたのである。私は子供ながらに「高橋くんのお父さんはただ者ではない。そしてその子供である高橋くんもただ者ではない。ただし、それらのことは私の可能性を少しも否定するものではない。私だってただ者ではない可能性が十分にあるのだ」

しかし、まるで理科の実験のような極めてシンプルな状況設定−同じ高さから飛び降りる−において、悲しい結果が表れ、そして周りの人々も「高橋くんとごん太が同じことをしたらそうなるに決まってる」と言うのを聞き、自分が運動の才能に恵まれていないことを自覚し始めるようになった。その後、跳び箱の段数だったり50m走のタイムだったりでその考えをより深めていくようになる。

しかし、スポーツ自体は嫌いではなかったので、学校の体育では何とか工夫して勝つ方法を考えることに全力を注いだ。小学校3年の頃には、バスケットボールの試合で「みんなにコードネームをつけて呼び合い、相手チームに誰を呼んでいるのか悟られないようにしよう」という作戦を考えた。小学校4年の頃にはレクリエーションの野球大会で「回の途中で時間が来たら、その前の回までのスコアで勝敗を決める」というルールに目をつけ、少しでもリードを奪ったら次の回に相手に延々と攻撃させ続ける作戦を考えたりした。

つづく

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無意識で生きていた【3】

前々回前回のつづき。

5:パン工場見学事件
これは大人になった今の私の感覚から考えても何か少し変だなあと感じる事件。私が低学年だった頃、パン工場見学という社会科の行事があった。そして、それとともに「おじいちゃん・おばあちゃんにパン工場について手紙を書いて教えてあげましょう!」という課題が出された。しかし、なぜかその手紙を送る日がパン工場見学の日よりも先に設定されていたのである。幼い私の頭はかなり混乱した。「パン工場の様子をおじいちゃん・おばあちゃんに教えてあげる」というのがこの一連のプログラムの狙いのはずなのに、何か日程がおかしい。待てよ。逆に、おじいちゃん・おばあちゃんに「今度パン工場に見学に行きます」という内容の手紙を送る課題だったとすれば、そんなまだ行ってもない場所について話の膨らませようがないし、じいちゃん・ばあちゃんだってそんな薄い内容の手紙をもらうよりパン工場の様子が説明してあった方が絶対に喜ぶはずだ。

結局私は、「おじいちゃん・おばあちゃん、この前パン工場に見学へ行ってきました。機械がすごく大きくてびっくりしました。」という、まだ行ってもないパン工場を勝手に想像しながら手紙を書いた。するとそれに気付いた先生(だったか両親)に「こらこら、まだ行ってないのにそんなこと書いちゃダメでしょ!」と注意された。私は熟慮に熟慮を重ねた結果下した自分の判断が間違っていたことを知り、かなりがっくりした記憶がある。逆に、結局どういう内容に直したのかは全く覚えていない。苦労してでっち上げた内容の方は25年経った今でも覚えているのに。

6:任命、即解任事件
1の事件と同じ先生のときにあった話。合唱発表会という行事に備え、クラスの中から指揮者を一人決める必要があった。私は「なんだか指揮者ってえらそうだぞ!」と魅力を感じ、すかさず立候補の手を挙げた。すると、私以外にもう1人立候補者がいたため、クラスの多数決で決定が行われることになった。その結果、当時エレクトーンを習っていたことも手伝い、見事私の方が当選することができた。その時、喜びに満ちあふれた私の心の中に、近所のおちゃらけたおじさんが教えてくれた1つの言葉が浮かんできた。そこで私は声高らかにそれを叫んだ。「立派、立派、おお立派。原っぱ、スリッパ、ヨーロッパ!!」

担任の先生がその言葉を聞いた瞬間、「ふざけてる子に指揮者はできません!指揮者は○○くんにしますっ!」と叫び、私は任命された瞬間に解任された。ああ、民主主義による決定の暴君を前にしてなんとはかないことか…。ああ、近所のおじちゃん、なんてどえらい言葉を教えてくれたんや…。

※ ちなみに、このおじちゃんは実はパイロットであり、ひょうきんな性格からみんなに好かれていている人物である。

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無意識で生きていた【2】

 前回のつづき。

3:将来の夢作文事件
これもまた私が低学年だった頃、先生から「将来なりたい仕事について作文を書いてきなさい」という課題が出された。そこで私は「将来は社長になりたいです」という内容の作文を書いた。しかし実は当時、私は「消防士」とか「プロレスラー」と同じように、1つの職業として「社長」というものがあると勘違いしており、「なぜかちやほやされる上、給料も物すごく高い夢のような仕事」とだけ認識していた。そんな勘違いをしていながら、なぜか私が書いた作文は先生から異様に誉められ、「ごん太くん以外は全員、明日までに書き直してきなさい!」と厳しい指示が出た。いや、はっきり言うが、本当に書き直しをしなければならないのは私の方だったはずである。

4:未読書感想文事件
上の事件とやや似ている。ある日、読書感想文の課題が出されたので、私はあるシリーズ物の童話を読んで感想文を書いた。…いや、正確に言うとちょっと長めの本だったので、途中まで読み進め、その段階までの感想を原稿用紙に書いた。これは全く悪気があってやったことではなく、単に「読書感想文とは普通、その本をきちんと一通り読んでから書くものである」という常識が私に備わっていなかっただけである。その証拠に、今でも覚えているのだが、その感想文の締めくくりは「まだ全部読み終わっていないので早く続きを読もう!」となっていた。この作文を読んだ担任の先生は、まさか読み終わっていない本で感想文を書いたとは思いもよらなかったらしく、この部分を「シリーズ物なので早く続きが読みたいです」という意味だと勘違いした。そして「ごん太、これよく書けてるから、今度のお昼休みの放送で発表しなさい」ということになった。当時、私の小学校ではお昼の構内テレビ放送でそういった優秀作品の発表が定期的に行われていたのである。こうして私の発表がお昼の放送で流れた後、やはりその先生は少し違和感を覚えたらしく、「ごん太、これってまさかこの本を読み終わってないってことじゃないよな?」と聞いてきた。私は当然のように「いや、この本を読み終わってないんですよ」と教えてあげた。すると先生は「……そうか……」とだけ言い残し、何だか苦しそうな表情をしていた。おそらく「感想文というのは読み途中の本で書いたらいけないんだよ」ということを注意する気力さえ起きなかったんだと思うが、さすがの私もこの時ばかりは「…ああ、何かやってはいけないことをしたんだな…」ということに気付き、先生の言葉にならない注意は私の心の中へ届いた。

(つづく)

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無意識で生きていた【1】

 タモリの有名な言葉の一つに「俺は5歳までは、無意識で生きていた 」というのがある。彼が本当はどういう意味でこの言葉を使ったのかは分からないが、私は自分なりにこの言葉を解釈し、「ああ、よく分かるなあ…。僕なんか8歳まで無意識で生きていたよ…」と考えさせられた。私には、小学校2〜3年生までに自分がとった行動を人から教えてもらったり、ふとしたはずみに思い出し、「なぜあんなことをしていたのだろう?」と思う事例が結構あるのだ。

1:体育連続見学事件
小学校2年生の頃、私はかなり長期にわたって体育を見学していた。これは母親から聞いた話であり、私自身には全くこれに関する記憶がない。見学となっていた理由は、学校の先生(ちなみに女性の先生である)が「紅白帽を持ってこなかった生徒は体育の授業を受けさせない」という方針だったにも関わらず、私が一向に紅白帽を持っていかなかったからである。最終的に親宛ての連絡帳に先生がこのことを書き記して事態が発覚したが、別段体育が嫌いという訳でもなかった私がなぜ一向に紅白帽を持っていくこともせず、また親にそのことを話すこともしなかったかは謎のままである。

2:口パク事件
小学校3年生の頃、音楽の駒村先生が「口を大きく開けて歌っている子はとてもえらいよ」と言っていた。そこで私はなるべく口を大きく開けるようにして歌ったのだが、やがて「声は出さずに、口だけ開けた方が限界まで口が大きく開けられる」ということに気づいた。その瞬間から私の口パク唱法が始まった。駒村先生はすぐにそのことに気付いたが、少し嫌味なところがある先生だったため、「ごん太くんは本当に口が大きく開いてるね。それで声もちゃんと出てるんならいいんだけど」という言い方で私に注意をしてきた。しかし私はほぼ無意識で生きている状態であり、「ああ、駒村先生がまた僕のことを誉めてくれた」くらいにしかそのことを感じていなかった。多分、それが一年か二年くらい続き、結局最後までそのことに気付かなかった(し、駒村先生も最後まではっきりとそのことを注意してこなかった)。その後長い時を経て、大学のときくらいにカラオケをしていてふとその記憶がよみがえり、「ああ、そう言えばあれどう考えても嫌味じゃん!口パクばれてるし!俺何やってんだよ!」と思い出した訳である。

(つづく)

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デザイン言語の思い出
大学時代の話。

当時、大学の人気授業の1つに「デザイン言語論」というのがあった。簡単に言うと、専用ソフトを使いコンピューターで3Dの物体を描いていく授業である。今やテレビゲームのキャラクターなどもほとんど3Dで描かれているから、みなさんもきっとイメージしやすいのではないだろうか。

しかし、この授業はあまりの人気のため履修希望者が定員をオーバーしており、抽選のためのくじ引きが行われた。そして、私は残念ながらくじに外れてしまった。

するとそこに、普段親しくしているサークルの後輩がやって来て、「社長(僕のニックネーム)、外れちゃったんですか。え、俺っすか?そんなの当然、当てたに決まってるじゃないっすか!」と近づいてきた。

この後輩こそ何を隠そう、数々の伝説を持つ強運の男、くりぼー(もちろんニックネーム)である。私は「朝の占い」とか「雨男」とか、そういった非科学的なものは全く信じない性質だが、彼の強運ぶりは間近に見て知っており、やはりこいつは只者じゃないなと思った(いつか彼の数々のエピソードも紹介したい)。

そこで、実はこの授業は全く同じ内容のものが週に2回あるのだが、もう1つの方の抽選で彼を抜擢することにした。そう、私の分のくじを引いてもらったのである。そして、彼は見事に当たりを引き当てた。

こうして楽しい授業が始まると、しばらくして早速教授から課題が出された。「簡単なものでいいので、まずは各自作品を作ってみなさい。」そこで、私とくりぼーは二人でコンピューター教室に足を運び、一緒に作品を作ることにした。私は当時からコンピューターとデザインを少しかじっていたため、くじ引きのお礼も兼ねて、ここぞとばかりに先輩面をして、彼に色々とアドバイスをした。「おいおい、この面がでこぼこじゃないか。もっとこうすればスムーズになるんだよ。そうそう、結構いいじゃないか」とまあ、そんなこんなで二人の作品は完成したのである。

そして後日、2クラス合同の作品発表会が行われた。形式は、コンピューター教室に並んだ各コンピューターの画面にそれぞれの作品を表示し、生徒たちが自由に歩き回ってそれを鑑賞するというものだった。そこで私とくりぼーは初めて周りの生徒のレベルに気付いた。それは、高校生が書いた油絵の中に、小学2年生の夏休みの宿題とその弟の落書きが紛れ込んでしまったような状態であった。

しかし、本当にラッキーだったのは、どの作品が誰のものかが分からないことだった。私とくりぼーは特に示し合わせることもなく、自分たちの作品の前を通り過ぎる際、「ぷぷっ…おいおい、これ誰の作品だよ。まあ、独創的と言えば独創的だよね」などと、自分たちの作品を馬鹿にし、これは決して僕たちのものではありませんと必死にアピールし続けたのである。

その後、二人はこの授業を切った(もう参加しなくなること)。
僕たちより遥かに才能があるのにくじ引きで外れてしまった生徒のみなさん、あの時は本当に申し訳ありませんでした。

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20年を飛び越えたドキドキ感
先日、何か手頃な値段で面白そうなゲームはないかと中古ゲームショップを見て回っていたところ、プレイステーション1用のゲーム『ロックマン3』を発見した。

これは1990年にファミコンで発売された同名のタイトルを、リメイクではなくそのままプレステ用に移植したもので、いわば昔のファミコン世代のファンに向けられた復刻版である。

そのパッケージを見た瞬間、私の記憶はさーっと甦った。ロックマン3が発売された当時、私は小学校3年生か4年生だった。そしてロックマンシリーズの大ファンでもあった。しかし、今の子供たちも同じだと思うが、ゲームソフトなど頼んだらすぐに買ってもらえるものではなく、私は悶々とした気持ちで日々を過ごしていた。

そんなある日、近くに住む本間くんが、彼はファミコン本体を持っていないにも関わらず、お小遣いを貯めてロックマン3を購入した。「ソフトだけ買って一体どうするの?」と尋ねたところ、「畑ちゃんのところに持っていってやる」という。畑ちゃんとは我々の友達で、やはりロックマンファンであり、何より日中は家に両親が不在のためゲームがやり放題という、小学生の我々にとって天国とも言える環境に住んでいる子だった。

私は迷うことなく本間くんに同行し、畑ちゃん邸に鼻息を荒くして乗り込んだ。しかし状況を整理してみよう。ロックマン3を持ち込んだ本間くん、場所とファミコンを提供した畑ちゃん、そしてただのロックマンファンである僕。これで僕にコントローラーが回ってくるはずはなかった。きっと2〜3時間が限度だっただろう。プレーできないロックマンの画面を見せられ続け、耐えられなくなった私は泣きながら家路についた(私は泣き虫だった)。

そして約20年が過ぎ、私は中古ゲームショップで再びロックマン3に再会した。あの時、どんなに願ってもプレーすることができなかったゲームが、晩ごはんを買うような値段と手軽さで私の家にやって来ることになったのである。

それでも、スイッチを入れてコントローラーを握るまでは、「何だかちょっと懐かしいね。大人の僕がやったら簡単に感じちゃうのかな」みたいな、割と軽い気持ちであった。でもプレーを始めてすぐに、僕はこれまで体験したことのない不思議な感覚に包まれた。あの時プレーできなかった悔しさ、大人になってゲームくらい自由にできるようになった開放感、そんなややこしいものでは一切ない。ただただ純粋に「ロックマン3ってこういうゲームだったのかー!」という感覚が体に染みんでいく。次を、早く次のボスを見せて欲しい。まるであの時泣きながら家に帰ったら家にロックマン3があり、「わー、これがさっきまで見せつけられてたロックマン3かー!むふー!むふー!」とプレーしているような感覚である。

多分、あの時僕の脳にはロックマン3に対する期待感と渇望が刻み込まれ、それは長い年月を経ても全く風化することなく、プレーする喜びと出会うチャンスを待ち続けていたのだろう。だから20年前と今日が、まるで昨日と今日のことのような感覚でつながったのだろう。たかがゲームのことではあるが、何だかとても珍しい体験をした気がする。
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ビックリマンにまつわる話(3)
前回はビックリマンの「盗難事件」について書いたので割と世知辛い話になったが、心温まるエピソードもある。

僕が小さい頃のビックリマンは本当に大人気で、お店に入荷するかどうかさえ分からないものだった。ある日、僕は近くのスーパーにビックリマンを買いに行ったのだが売っておらず、店員のお姉さんに聞いたところ、「今日の夕方に商品を積んだトラックがやって来るんだけど、ひょっとするとそこに入っているかもしれないよ」と言われた。

そこで僕はスーパーの前でトラックがやって来るのを何時間もじっと待ち続けた。するとついに運送屋のトラックがやって来て、背の高いお兄さんが段ボール箱を何箱もてきぱきとお店に運び入れ始めた。僕は思わず、「あの、ビックリマンはありますか?」と尋ねたところ、「え、ビックリマンは入ってないよ」と言われた。

僕は傍目にも分かるほどしょんぼりしたらしく、お兄さんが「ビックリマン待ってたの?」と聞いてきたので、ずっとスーパーの前で待っていたことを伝えると、お兄さんは「そっかあ…困ったなあ。なんか、似たお菓子がいっぱいあるけど、それじゃダメなの?」と聞いてきた(※ 当時、ビックリマンブームに乗っかろうとした類似商品がたくさん発売されていた)。

そして結局、お兄さんは半べその僕に自分のポケットマネーで色々なお菓子を買って与えてくれた。

当時の記憶をたどると、あの時のお兄さんは「よし、お兄さんがいいこと考えたぞ。君に他のお菓子を買ってあげるから、これで元気出すんだよ!」みたいな余裕のある接し方ではなく、「こんな所に泣いてる子がいる…困ったなあ…何とかしてやらないと…」みたいな「ちょっと切羽詰まってる」感じだった。

僕が今でもこの人のことを思い出すのは、彼がそういう人だったからである。たかだか「ビックリマンが買えないで泣いている見知らぬ子供」に対し、普通の大人が「ちょっと切羽詰まる」くらい心配な気持ちを抱き、同じレベルまで降りてきて何とかしようと他のお菓子を買ってあげたりするものだろうか。

幼い頃に一瞬接しただけの人だったが、彼は僕がこれまで接してきた人の中でも、少し異常と言えるくらいの優しさを持った人間であった気がする。僕がこのお兄さんから受けた影響は大きい。
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